「それじゃ、行ってくるね」
と、言って猫のパリスに別れを告げたあと、私は玄関のドアを開け羽田空港へと向かった。
早朝ということもあり外はまだ薄暗くひんやりとしている。住宅地を一人で最寄りの駅まで歩いていると、朝日が家々の隙間から少しずつ差し込みはじめ、晴れたという空への安堵が旅の期待をさらに膨らませた。
空港に着いたのは6時過ぎだった。
出発ロビーでチェックインを済ませたあと颯爽と搭乗口へと向かう。広大な空港の中でも一番端にある68番ゲート。そこから庄内行きの便に乗り、予め希望していた窓側の席に座った。平日の早朝の地方行きの飛行機ともあってか乗客はまばらだった。
天気がいいから今日は揺れないで済むかも……。
そんなことを考えながら外の景色をぼんやり眺めていると程なくして機体は動き出し、離陸体制に入ったかと思ったらあっという間に空へと飛び立った。
シートベルトの着用サインが消えた頃には遥か上空にまで届いた。
窓の外には青い空が広がっていた。
東京在住、23歳、会社員、趣味旅行。
山形の庄内は以前から訪れたいと思っていた場所だった。職場で仲の良い同期に庄内出身の伊藤ちゃんと原田ちゃんという人がいて、三人で会うことがあれば、彼女らとはよくそれぞれの故郷の話で盛り上がった。
とは言っても三人のうちの二人が庄内出身だったので東京が故郷である私の話をしていても、話はおのずと庄内の話に偏った。
鶴岡には出羽三山というパワースポットがあることや世界一のクラゲの水族館があること、庄内という所は自然や歴史がたくさんあり食の都と言われるぐらい食べ物が美味しいということなど二人はいつも庄内の魅力を存分に話してくれた。そして、旅行に行くなら季節は初夏がいいかもということまで教えてくれた。
私にはそんな話をするときの二人の掛け合いがとても楽しそうに映ったし、なにより都会育ちの自分にとって、そんな魅力ある庄内を故郷にもつ二人がとても羨ましく思えた。
そういった話を幾度か聞いているうちに私もすっかり庄内の魅力に惹かれ、中でも湯野浜というところの空と海はとても綺麗だという話がこの庄内への旅を決定づけた。宿泊先はネットで探した。〝湯野浜〟というキーワードを入れて宿を探していたら〝お部屋から見える海がすごく綺麗でお料理がとても美味しい宿〟という口コミを見つけたので泊まる場所はそこに決めた。
湯野浜温泉にあるうしお荘というところだった。
ここなら伊藤ちゃんと原田ちゃんが話していた食の都の美味しいものを堪能できそうだし、旅の目的の一つでもあった湯野浜の空と海を見ることができると思ったからだ。
そして、湯野浜温泉は海に面した歴史ある温泉郷であるということなので、それについても興味が湧いた。
この前三人で会った時にこのことを二人に話したら、とても嬉しそうだった。宿については、いいところを探したじゃないといった感じで少し驚いた様子だった。
「お土産はからから煎餅ね」
と、原田ちゃんがお願いしてきたので聞いたことのないお土産だったが、
「からから煎餅ね。美味しいよね」
と、返したら二人とも笑っていた。
あたかも知っているふりをしたのが面白かったようだ。その後、いつものように三人で談笑してその場は別れた。
気が付くと携帯に一通のメールがきていた。
「気を付けていってきてね。パリスは隣で気持ちよさそうに寝ています」
という母からのメールだった。
「ありがとう。行ってきます」
と返した。
そして、青く澄み渡る6月の空を窓の外に見ながら、私は庄内に着くまでの間少し眠りについた。
二人が旅をすすめてくれていた初夏のことだった。
【湯野浜温泉】
この地に温泉が誕生してから900年余り。
多い時には数十件の宿が軒を連ね、上山温泉(山形)、東山温泉(福島)と並び奥州三楽郷の一つとして栄えていたという湯野浜温泉。
当時の温泉街は祝賀ムードが漂い、東北随一の歓楽街として賑わいをみせていたという。目抜き通りにはお土産物屋や娯楽施設、飲食店が並び、道行く人々の心を楽しませていたようだ。
近年は交通網の発達やレジャーの多様化により当時の賑わいは薄れ、かつて行楽地として栄えた温泉街の風景も一変してしまったという。
それでも気の向くままに温泉街を歩けば、都会にはない静けさと、まだ見ぬ土地への冒険心で自然と心が和む。
静寂の中に漂う湯けむりや、僅かに残る当時の面影はなぜか懐かしいようで、そしてどこか奥ゆかしい。
元気がない時、何かに迷っている時、そんな時はそっと神様に手を合わせ、心を落ち着かせてみようよ。
前に進もうとするあなたの勇気に、きっと神様も後押ししてくれるはず。
赤い鳥居をくぐると不思議とテンションもあがるしね。
【尾巻稲荷神社】
湯野浜には神社がいくつかあるが、その中の一つが尾巻稲荷神社。赤い鳥居が連なる美しい光景はさながら京都の伏見稲荷のようだ。
伊藤ちゃんと原田ちゃんが綺麗だと言っていた湯野浜の海を歩いた。
「なんという綺麗な所だろう……」
この上ない感動的な風景だ。
空と海がひときわ青くとても美しい。
空が近くにさえ感じる。白い砂浜も綺麗だ。
同じリズムで寄せては返す波。
海にきらめく太陽の光。
優しく吹き抜ける海風。
全てが穏やかだ。
とても心が落ち着く。
私は時間を忘れ、ただただ海を見ていた。
この空と海はいつまでも見ていられる美しい風景だと思った。
―――――数日後。
想像以上だった庄内への旅。庄内は素晴らしい所だった。特に湯野浜で過ごした日はとても印象に残っている。歴史に抱かれた温泉郷。青色が美しかった空と海。美味しいお料理。
力をもらえるシーンというものに出会えるときがある。明日への力に繋がるメッセージのようなものだ。湯野浜の空と海を見たあの日、あの美しい青色の風景にはそんな力に繋がる感動を覚えた。湯野浜でしか目にすることのできない青色の光景、そうあれを言い表すとすれば、湯野浜ブルーではないかと。
朝の電車に揺られている。
仕事に向かうためだ。
窓の外に見えるいつもと変わらぬ風景。
立ち並ぶビル群。
ビルの谷間から僅かに覗く東京の空を遠くに感じながら、私は今、もう一度あの場所に行ってみたいと考えている。